小宮秀一について

 

1961年千葉県生まれ。A型。独身。
店長養成講座主宰。
アキバ育ちの元パソコンショップ店長。

初めて店長を勤めた店は、ゼロから年商25億円の店を立ち上げた。でも、一度潰しかけたのは内緒。

2回目に店長を務めた店は「半年以内に30%売上を上げろ。できなければクビ」という理不尽な指示を3ヶ月で達成した。でも、長続きしなかったのは内緒。

20年間で延べ10万人のお客さんと接してきたことが唯一の財産。

賞罰は、秋葉原電気街振興会第1回優秀販売員コンテスト優秀販売員賞。
資格は、日商2級販売士、MOT(マイクロソフト・オフィシャル・トレーナー)、NEC公認インストラクター、防火管理者を持っているが、全て会社命令で取ったものなのでありがたみはない。
趣味は、活字を読むこと(SF、スポーツ関連、音楽関連、パソコン関連など)、音楽を聞くこと、音楽を作ること、パソコンを作ること、プログラムを作ることなど、インドアでオタクなものばかり。店に関わってなければ、間違いなく引き籠もりになっていたはず。
特技は、ギター、キーボード演奏。テクニックより、大抵の曲は聴いただけでコードがわかるという耳の良さが自慢!
座右の銘は、優柔不断、朝令暮改。

仕事暦

’82年4月、専門学校卒業後、秋葉原の中堅家電量販店に入社。オーディオ専門店に配属される。担当商品は、オープンリールデッキ、カセットデッキ、レコードプレーヤー、カートリッジ、オーディオアクセサリ等。

同年9月、パソコン売場が新設され、「若いから」と言う理由でパソコン担当に異動。私も含めて、売場の担当全員がパソコンは初めてだった。どうやって売ればいいのか、そもそも何を説明すればいいのか、全くわからない中、試行錯誤しながら売り方、売場を作っていった。上司は「俺には無理だ」とパソコンを覚えるのをあきらめていたため、好き勝手に作ることができた。

当時の私の実績は、パソコン販売に始めてセット販売を取り入れたこと。直前まで担当していたオーディオの売り方を応用した。当時のオーディオは、様々なパーツを組み合わせて提案すると言う売り方が標準だったのである。また、現代まで続くパソコン=儲からないという図式を作ってしまった状況の一端にかかわっている。

’83年1月、本店を大型化する計画が実行され、本店開店準備プロジェクトの一員となってしばらく本部勤務。もっとも若い一人だったが理由はカンタン、パソコン担当が2人しかいなかったためだ。

その時点でまだフロア長が決まっていなかったため、どんな商品を扱うか、売場レイアウトをどうするか、陳列はどうするかは、23歳の若造である私が行うことになった。この店は当時の秋葉原では最大の売場面積となる業界でも注目の店だったが、若すぎたためか大してプレッシャーを感じることなく商品を選び、売場を作った。ただ、180坪の売場を埋めるのには苦労した。当時はそんなスペースを埋められるほど商品はなかったのだ。

’84年4月、スタッフのほとんどが新卒の新人と言う状態で本店が開店。私は当然パソコン担当となった。業界誌の家電ビジネスには、什器のセンスが古い、店員のスキルが低過ぎるとして叩かれた。新人ばかりなのでスキルが低いのは仕方ないが、什器をデザインしたのは著名なコンサルタント。実は現場でもセンスが古すぎるとして反対意見が多かった。

この店、開店から7年は順調に業績を伸ばしたが、その後、長期低迷に落ちいってしまった。

主な原因は、店の基幹部門であるパソコン売場の失速である。売上の6割をパソコンで稼いでいたため、パソコンの売上減が即業績悪化に直結した。

パソコンの売上が落ちた理由は、ライバルがパソコンに力を入れ始めたことや、また、ソフマップやステップなど新しいライバルが登場したことなどがあるが、最大の原因は、私たちが自分の店の強みを見失ってしまったことだ。

私たちは、パワーユーザーと呼ばれるマニアによって支えられていたのだが、あるとき数がたくさんいる初心者向けにターゲットを変えた。でも、そんな店なら既に秋葉原にあったのだ。しかも、私たちの店よりはるかに有名な店が。私たちはその土俵で勝ち目はなかったのだ。

’94年6月、会社はパソコン部門を人と商品も合わせて他社に売却した。私たちは商品と一緒に売られたのである。捨てられるよりはましだった。

この会社は、前の会社とは対照的だった。前の会社は、売上は低迷していたが、経営はしっかりしていて、従業員への給料の支払いが遅れたり、仕入先への支払いが遅れたりすることはなかった。一方、この会社は、仕入先への支払いが遅れることは日常茶飯事だった。

しかし、この会社にはたくさんのお客がいた。社長の商売センスは天才的だった。創業30年弱で年商一千億円の会社を作ったのだから。私はこの社長から多くのことを学ばせてもらった。私が人生において先生と呼びたい数少ないうちの一人である。

私がこの会社に入ったときは、ちょうど会社が急成長を始める直前。会社全体がエネルギーに満ち溢れていた。社員の誰もがやる気に満ち溢れていた。ちょうど、前の会社が本店を大型化したときと同じエネルギーを感じた。

’94年10月、大型店をオープン。私はDOS/Vフロアのフロアマネージャとなる。当時、秋葉原でもっとも売上を上げた売場になった。

このフロアでの仕事にはあとあと長く語られたエピソードがある。

私はフロアマネージャになったとき「’95年12月10日に1億円を売ろう」と宣言した。単なるスローガンではなく’95年の12月10日に1億円を売るために行動しようと呼びかけた。私は11月に異動になって、結果を自分の目で見ることはなかったのだが12月10日の午後9時ごろ、そのフロアの人間から電話があった。

「小宮さんが言ったとおり、1億円売りましたよ。こっちじゃ、小宮さんすげーっとなってますよ」と報告してくれた。

よく「嘘だろ?」と言われるエピソードだが、完全に実話である。

もちろん、この数字には根拠があった。Windows95が大ブレイクすると確信していたからだ。私の予測の正しさを自慢しているのではない。当時、パソコンに関わっていた人間にとって、これは当然そうなるべきことだったのだ。なぜなら、米国でそうだったからである。日本のパソコン市場では、米国で起こったことが、数年遅れて起こるのが常識なのである。

’95年11月、当時、アキバ以外では社内最大の売場面積を持つ地方都市の支店の店長となる。

実質準備期間25日、従業員がそろったのが10日前という状況の中、当初の計画月9千万円を100%上方修正させる売上を上げる。

しかし、2年目に前年実績の7掛けという売上を記録。全19店舗のうち、17店舗が売上を2桁伸ばしている中、どん底に落ち込む。原因はカンタンだった。1年目にはライバルと呼べる店がなかったのに、2年目になると多くの有名なライバルが出店してきたからだ。早い話、お客を取られたのである。

本来なら店長はクビだったはずだが、代わりがいなかったため引き続き店長を務める。強力なライバル店がひしめく環境の中、試行錯誤を繰り返しながら11ヶ月後に売上回復のきっかけをつかむ。

3年目、19店舗中17店舗が前年実績を割り込む中、前年実績はもちろん、初年度の売上も上回る売上を上げた。

’99年12月には、開店前に公言していた月3億円を達成し、年25億円を達成した。

’99年1月、会社が債務超過に陥り、体制が一新される中で秋葉原の本店に異動。本店では、周辺機器のジャンルの商品で、秋葉原最大の売上を上げる売場の立ち上げた。

’00年1月、社内最大の問題店舗への異動を命じられる。4年前の開店以来一度も黒字になったことがなく、2年間、対前年比を2桁落としていて、今期に入っても7ヶ月連続で前月実績割っている店舗だ。しかも、「半年で30%売上を上げろ!できなければクビ」と言う命令だ。売上を上げるだけならカンタンなので3ヶ月で命令は達成した。

ちなみに、「たった30%?」といやみをよく言われるので書いておくと、この店の月商は3億円である。30%がいくらになるかはお分かりだろう。

しかし、この店舗の最大の問題に関しては、一店長の手ではどうにもならないことだったため、売上は長続きせず、8ヵ月後にクビになった。

その後1年間、本社で顧客データ分析とEメール・マーケティングの仕事に携わる。誰もやっていなかった仕事なのでいろいろ実験させてもらった。上司にも報告したがさほど興味はもたれず、その成果はほとんど自分のノウハウとして持ち出させてもらった。

20年勤務したあと、会社の方針に納得できず退職。商売を知っているのは、会社を支配していた財務屋なのか、それとも自分なのか確かめたかったので、準備なし、金なし、人脈なし、そして商品すらない状況から、商売を立ち上げる。少なくても自分の20年の経験は無駄ではなかったことが確認できた。

一方、会社を支配していた連中は、私の思ったとおり、会社を建て直すことはできず、売上を100分の1にして投資ファンドに売却、彼らは誰一人責任を取るわけでもなく、出向元の会社に帰っていった。

某有名コンサルティング会社が「自分たちには無理だ」とコンサルティングを断ったほど競争の激烈な業界で、20年間、何とか生き残ってきた経験と、のべ10万人のお客さんと接してきたことが私の最大の財産である。

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