マスコミはソフトバンクをIT企業と言っていますが、この業界に身をおいていたものからするとちょっと抵抗があります。
ソフトバンクがIT企業と言われるのは、Yahooに代表される買収した企業のおかげで、ソフトバンク自体はIT企業とは言えないと思うのです。
ソフトバンクは元々、パソコンソフトの卸売りから始まった企業です。要は、「パソコンソフト専門の問屋」だったのです。ソフトバンクがIT企業なら、日商岩井だってIT企業です。総合商社だって、パソコン関連商品の卸売りはやっていましたからね。
ただ、ソフトバンクは、IT企業ではありませんでしたが、情報の価値はよく知っていました。ソフトバンクが他の数ある問屋と違っていたのはココだったのです。
ソフトバンクの孫正義氏は、経営者としての評価が定まっていませんが、少なくても一流の商売人であることだけは疑う余地はないと思います。それは、ソフトバンクが、ソフト専門の問屋として飛躍した背景を見れば明らかです。
ソフトバンク創業の背景
日本でパソコン市場が誕生した起点をどこにするかは見解が分かれるところです。ただ、売れないもの、儲からないものは商品とは言えませんし、そんなものに市場はないと言えます。従って、商売になるパソコンが登場したと言う意味で、NECのPC-8001が発売された’79年が、日本におけるパソコン市場誕生の起点と考えるのが妥当でしょう。
米国では既にパソコンは、ワープロや表計算ソフトによって、仕事に使える実用的な機械でしたが、日本ではそうではありませんでした。ワープロ、表計算どころか、漢字が使えませんでした。はっきり言って、当時のパソコンはマニアのおもちゃといって差し支えありませんでした。
アップル・コンピュータに代表されるベンチャー企業が市場を創造した米国と異なり、日本のパソコン市場の主役は、NEC、富士通、日立、シャープと言った大企業でした。
もっとも、こうしたメーカーにパソコンを作るように進言したのは、当時のベンチャー企業アスキーの社長にして、Microsoft副社長だった西和彦氏ですけどね。
ただ、パソコンメーカーの主役は大企業だったものの、周辺機器やソフトは、米国と同様ベンチャー企業が主役になりました。特に、初期投資のいらないソフトには、無数の作り手が参入してきました。
作り手の多くは、パソコンショップに出入りしていたマニアでした。彼らのほとんどは商売っ気などなく、ただ、自分の力を誇示したいだけでした。パソコン通信もインターネットもない時代です。彼らの発表の舞台は、パソコンショップの店頭しかありませんでした。
パソコンは今も昔も、ソフトがなければただの箱です。こうした動きに目をつけたあるパソコンショップは、彼らからソフトを買い取り、自社ブランドで販売していました。そうした中からいくつかヒット商品が生まれ、同時に起業家も生まれました。
商売となると、一つのショップの縛られたくありません。秋葉原にはいくつも店があって、当然、いろんな店で扱ってもらった方が儲かるわけです。
ただ、彼らには商品はあっても、営業力がありません。ここからが問屋の出番です。電子部品を扱っていた問屋がソフトを扱うようになりました。電子部品の問屋は、膨大な仕入先を管理する能力がありましたから、ソフトの作り手と付き合うのもカンタンなことでした。
こうしてソフト市場が出来上がった頃、ソフトバンクは、パソコンソフト専門の問屋として参入してきました。片手間ではなく、ソフト専業だと言うことを強みにしたわけです。新規参入の戦略としては申し分ないものでした。
ソフトバンクの飛躍
ソフト専業をウリに参入してきたものの、当初はなかなか店に相手にされませんでした。
私が最初にソフトバンクに会ったのは’82年です。私がいた店がパソコン売場を作ってすぐ「取引してほしい」と売り込みに来ました。私が最初に応対して、上司に案内しました。
上司の判断は、「お互いにメリットが薄い」として断りました。ソフトの仕入先は既にあって、しかも、その仕入先からは、ソフトだけではなく、周辺機器や、パソコン本体さえも仕入れることが出来たからです。
もっとも、中堅の店が新しい取引先と付き合う最大の決め手は、大手の店が付き合っているかどうかです。ぶっちゃけ、ラオックスが取引していれば取引するんです。でも、そうではありませんでした。
数あるソフト卸の一つでしかなかったソフトバンクが、数年後には業界最大手になります。そこには、明確な理由がありました。ソフトバンクが取引先を増やし、飛躍できた理由は、出版事業を立ち上げたことにあります。
出版事業を始めたのは、単なる多角化ではありません。ソフトの卸売りに役立てるためと言って間違いではありません。
パソコンソフトは、お客さんがカンタンに試すことはできません。下品な言い方で申し訳ありませんが、当時私たちは、「パソコンソフトはビニ本と同じだ」と考えていました。買って使ってみないと、使えるかどうかわからないものだったのです。
もちろん、ソフトメーカーは、この問題を放置していたわけではありません。店に「サンプル」を提供して店頭のパソコンで動かせるようにしたり、人を派遣して店頭でデモをやったりしていました。
ただ、サンプルを提供しても、店員に使える人間がいなければ宝の持ち腐れですし、店頭でのデモにしても、毎日できるわけでもありませんし、出来る場所も限られるわけです。時間も場所も極めて限定されてしまいます。
実は、あらゆるソフトの販促には定番的な手法があります。それは、専門誌に評価してもらうことです。映画やビデオなどは既にその手法での販促が行われていました。
ソフトバンクはココに目を付けたわけです。卸売りだけじゃなくて、販促の場も提供できれば、ソフトメーカーにも店にも大きなメリットがあります。ソフトメーカーは、ソフトバンクと取引すれば雑誌で取り上げてもらえるし、店は、「雑誌で高い評価を受けたソフト」として売りやすくなります。
ソフトバンクは、機種別の専門誌を立ち上げました。NECのパソコンに特化したOh!PC、シャープのパソコンに特化したOh!MZ、富士通のパソコンに特化したOh!FMなど、大手メーカーに対応した雑誌を一挙に創刊しました。当時ソフトは、メーカーごと、機種ごとに対応したものでなければ使えませんでした。ですから、この試みからしても、狙いがソフトの販促にあったことが伺えます。また、こうした専門誌なら、メーカーの広告も取りやすいと言う計算もあったでしょう。
この最初の成功例が、ジャストシステムの「JX-WORD太郎」です。
ジャストシステムはそれ以前、ASCIIにワープロソフトをOEM供給していました。「JX-WORD太郎」は初の自社ブランド商品でした。「JX-WORD太郎」はソフトバンクの独占だったこともあって、自社の雑誌で「JX-WORD太郎」を絶賛しました。このプロモーションによって、「JX-WORD太郎」は大ヒットし、ワープロソフトの定番の地位を奪いました。もちろん、ソフトバンクも飛躍的に売上を伸ばしました。
「JX-WORD太郎」以前のワープロの定番は、管理工学研究所の「松」でした。管理工学研究所は、NECなどの大手メーカーをも顧客に抱える受託システム開発の老舗でした。その管理工学研究所の高い技術力が反映されたのが「松」でした。
「松」は、当時の大手メーカー製のワープロ専用機(安いものでも60万円以上していました)以上のかな漢字変換効率を誇り、NECのPC-98シリーズのキラーアプリケーションになりました。お客さんは、「松」を使うためにPC-98を買っていたのです。
ジャストシステムの「JX-WORD太郎」は、「松」に匹敵する機能を持ちながら、価格が半分でした。逆に言うと、同じ価格帯のワープロとは圧倒的にレベルが違う出来だったのです。他のワープロがせいぜい熟語変換しか出来なかったのに、「松」と同じ連文節変換を実現していました。
私、最初に「JX-WORD太郎」デモを見せられたとき、衝撃を受けたのを覚えています。ソフトバンクの営業マンがジャストシステムの営業マンと一緒に店に来て、自信満々でデモを見せてくれました。この値段でこの機能なのが信じられませんでした。ぶっちゃけ、「これで売れなければおかしいだろう」と言うソフトだったのです。
また、店頭で働く私たちにとっても、「JX-WORD太郎」は定番のワープロソフトになりました。文書を作るときには「JX-WORD太郎」を使うようになりました。当然、使い方にも詳しくなりました。だから、接客するときの説得力にも迫力が出るってなもんです。
ですから、「JX-WORD太郎」は、雑誌の評価記事がなくてもいずれ大ヒットしたでしょう。でも、発売直後から火がついたのは間違いなく雑誌で絶賛されたおかげです。
ソフトバンクは当時、IT企業でこそありませんでしたが、「情報」の価値はよく知っていました。ソフトバンクは「情報」を握ったからこそ、業界最大手になれたのです。
初出:2004年11月25日「Manager-NET通信」
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